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童謡「赤い靴」の親子像 [日々のこと]

童謡「赤い靴」の見てきました。
静岡県の日本平です。
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童謡赤い靴の歌は好きな童謡の一つです。
赤い靴はいていた女の子、異人さんに連れられて行っちゃった。
女の子はどうしたろうと考えてしまいます。

この歌は実話に基づいたものとしてWikipediaにはこんな文が掲載されて
います。
「定説」としての『赤い靴』
歌詞は、実話を題材にして書かれたという説がある。

野口雨情は1907年(明治40年)に札幌の北鳴新聞社に勤めていたときに岩崎かよという女性と知り合った。「定説」によると、この岩崎かよの娘・佐野きみ(1902年(明治35年)7月15日 - 1911年(明治44年)9月15日)がその赤い靴を履いていた少女のモデルとされた(「佐野」は戸籍上の名前[2])。

岩崎かよは静岡県清水市有渡郡不二見村(現在の静岡市清水区宮加三)出身で、山梨県の紡績工場に働きに出ていたが、1902年(明治35年)に身重となり、1人で帰郷してきみを生んだ。かよは1903年(明治36年)に北海道に移民として渡り、そこで鈴木志郎らとともに平民社農場で開墾に携わった(1906年(明治39年)に鈴木志郎と結婚)。しかし、開拓生活の厳しさもあり、1905年(明治38年)〜1907年(明治40年)頃に娘のきみを養女に出したという[1]。かよは娘・きみの養育をアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に託すことになった。やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になったが、その時きみは結核に冒されており、渡米できず、東京・麻布の鳥居坂教会の孤児院「永坂孤女院」に預けられることになった[2]。きみは孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなったという。母親のかよは、きみはヒュエット夫妻と一緒にアメリカに渡ったものと思いこみ、東京の孤児院で結核で亡くなったことを知らないまま一生を過ごした。

野口雨情は1907年(明治40年)に札幌の北鳴新聞社に勤めていたとき、鈴木志郎と妻のかよとの親交を深め、娘のきみの話を聞かされた[1][2]。その後、1921年(大正10年)に、この話を題材にして『赤い靴』が野口雨情によって作詞され、1922年(大正11年)に本居長世作曲で童謡になった。
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この説には異論もいくつかあるようですが私は童謡なかの赤い靴に
想いを寄せています。

私の友人が「赤い靴はいてた女の子」という歌を作りました。
聞いてください。

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Take-Zee

おはようございます!
”青い目をしたお人形・・”と関係あるとか・・

by Take-Zee (2022-11-27 08:07) 

acconomugi

残念、違いますね(^◇^)
青い目の人形は太平洋戦争の少し前、悪化する日米の関係を懸念してお互いの国の子供たちに人形が贈られました。日本の子供たちに一人一人に青い目の人形がプレゼントされました。
赤い靴は日本の可哀そうな子供のお話です。
by acconomugi (2022-11-28 08:58) 

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